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2026年3月号
日本の乗馬技術の為体は、ライディングホースのトレーニングスキルの貧困によるところ大なのである。
多くの乗馬愛好家にとって、どのような乗用馬が適しているのかという課題を、追究せずにこの社会の発展はないのである。
例えば、競走馬の下請けとしてのサラブレッドの活用などといった話をしているようでは、乗馬人口の拡大も向上も不可能なのである。
乗用馬に最適な品種の選択なしに、乗馬の普及などあり得ないのであり、(財)全国乗馬倶楽部振興協会と、(社)日本馬術連盟の二つの乗馬界をオーガナイズする団体は、財政面でも人事面でも、日本競馬協会の付属団体といってもいいようなものなのである。
従って、日本における乗用馬として活用される品種の大半がサラブレッドになるのは、このような社会構造的な問題なのである。
日本競馬協会は、元々農水省の外郭団体であり、その後に独立法人となっているものの、日本における馬の行政部門を農水省に代わって担っている部分があり、農水省の本省には、馬の行政に関わっている人は、2人位と話を聞いたことがあるほどである。
つまり、日本の馬社会の制度設計が間違っていて、根本から見直して、健全な社会構造を構築しなければならないのである。
先進国で、日本ほど乗用馬にサラブレッドが利用されている国はないのである。
サラブレッドは、ノンプロのライダーが趣味として営む乗用馬に適していないことは、乗馬をする者なら誰でもが知っている常識なのである。
経済大国である我が日本において、乗馬界がこのような構造的欠陥を何時までも放置しておいていいはずがないのである。
また、ライダーの乗馬に対する意識の低さも指摘せざるを得ないのである。
これに似ているものは、ペットに対する人々の意識も同様で、ペットが餌を食べている姿に癒されたり、犬を散歩しているのではなく、犬に散歩させられていたりして、その結果ペットが肥満になり、マナーの躾ができていないペットがあまりに多いのである。
ライダーが自分の上達を目指すが故に、馬が抵抗しても反抗しても、つまり、どのような馬になってしまっているのかに、頓着がないのである。
日本の乗用馬のマナーの悪さ、噛む・蹴るが日常的に見られるのは、恥ずかしい限りである。
人間の尊厳、そして動物の尊厳を敬うのであれば、耳障りのいい言葉に酔っているのではなく、それぞれがあるべきマナーがあって然るべきなのである。
側聞した話では、子供達に乗馬を指導する高名な先生が、「馬はお友達だから、馬に優しくしましょう。」と言っていたらしく、その結果、大怪我した子供が続出したということである。
人が馬を扱うとき、人と馬の上下関係を厳格にして、そのうえで人が馬を優しく扱うべきで、上下関係の厳格さが前提であって、この前提なしに、馬がお友達などと軽々にいってはならないのである。馬にとっても迷惑な話なのである。
ある競技会で見た光景であるが、パフォーマンスの後で馬をクールダウンするために、スタッフが馬を引いて歩いていたのである。
「クールダウンであれば、乗ってクールダウンすればいいのでは?」というと、スタッフは、もし乗ったら上役に叱られるということだった。
その上役がその馬に乗って出場した選手だったのだが、その選手が騎乗せずに引いて歩くのであれば、馬を慈しむ思いで、馬に乗らずに歩いてクールダウンするのだから、話は筋が通っている。
しかし、部下に馬をクールダウンさせるのだったら、その馬に騎乗させてクールダウンさせて、何が問題なのだと思うのである。
その上役にとって、自分の乗る馬と部下を比べると、馬の方が、地位が上だという意識なのだろう。
馬鹿につける薬はないのである。
全てのライダーは、ライダーに対する従順性と、パフォーマンスのレベルアップのために馬に乗るべきなのである。
この考え方によれば、全てのライダーは、馬がどのようにものごとを学習し、どのように忠誠心を養うこととなるのかを根幹において、騎乗することになるであろう。
このようにすることで、ライダーが上達することと、馬が成長するベクトルが一致するのである。
乗馬とは、人と馬の主従関係を厳格にした環境下で、人と馬とが充実した時空間を共有するスポーツである。
また、人間の持つ感性を最大限に活用して、ライダーと馬とがコミュニケーションし、ライダーと馬の心が通いあったときの言語に尽くし難い慶びを求めて進む道なのである。
更にまた、乗馬は、ライダーに、馬をコントロールする物理的強制力がなく、ライダーが馬に対し主導権を握り、馬のメンタルをコントロールすることで、馬のフィジカルを間接的に動かし、その動きをコントロールするものなのである。
全てのライダーは、乗馬に供する馬の品質向上を目的として、乗馬を営むものでなければならないのである。
ライダーは、馬の態度やマナーを育み、パフォーマンスの能力を、如何に引き出すかを探究しなければならない。
そして、ライダーの上達は、自分の才能や思考力や感性を開発し、また、欠点と思わしき臆病や非積極性やケアフルである弱点を、否定的に思い込むのではなく肯定的に捉え、できることや得意とするところを、如何にして更なる高みに引き上げるかを課題とすることこそが、自らを上達せしめることだと信じなければならないのである。
臆病であったり積極性に欠けたりすることは、外部情報を敏感に感じ取る能力であり、危機意識が強いということだから、欠点であるかも知れないが、良きところだといえなくもないのである。
また、これらのことは、大怪我しないリスク管理の才能でもある。
努力や勇気に依存して上達を期すことは、知恵のない愚者の習いなのである。
そしてまた、指導者は、ライダーのいいところを見出して、これを明確にすることに努めなければならないのである。
偶然なる成功や失敗に意味はなく、意図的行動による失敗は、ときとして成功に勝るのである。
指導者は、ほんの一瞬に垣間見ることができる成功を、見逃すことなく指摘することが本分だと心得なくてはならないのである。
況してや、欠点や失敗を指摘することに、何ら生産性がないことを知らなければならないのである。
失敗や欠点を指摘した時点で、指導者たる地位を自ら投げ出していることを意味するものなのである。
また、上達の過程において、成功と失敗が生まれるが、成功は奇跡あり、失敗は日常のことなのである。例えば、ものごとの構成要素が、3つあるとしたとき、その3つ全てが、整ったときに成功し、3つの内一つでも欠ければ失敗するのであるから、確率でいえば、2/3は失敗し、1/3は成功するということになり、もし、もっと構成要素が多いことであれば、成功することは奇跡に近く、失敗は当たり前で日常的に発生するということになるのである。
従って、失敗を悔やんだり絶望したりするのは誤りで、その中に一つでも成功があれば、全体的に失敗であっても、その一つを光明として慶び、成功への道標とすることが賢い方法なのである。
上達とは、1/100の成功を2/100にして、やがて100/100にすることだと理解することで、諦めることなく挑戦し続けることで、誰にでも訪れるものなのである。
また、自分自身の行動は、自分という乗り物をコントロールしている存在であり、その存在が自分を操縦して、その行動をしているのである。
自分という乗り物の操縦室には、無意識であったり意識的であったりする「思い込み」という存在がいて、操縦桿を握っているのである。
従って、「思い込み」の実態を知る必要があるのである。
無意識に「思い込み」の操縦に任せていては、自分を他人が思い通りに動かしているようなもので、何事も自分の意図することにはならないのである。
「思い込み」の実態を認知すれば、その「思い込みを」コントロールすることができるので、自分の思惑が達成できるのである。
自分自身の成長や上達は、挑戦したときに現れるに現象こそが道標で、些細な現象でもこれを手がかりにして、工夫や改善に努めれば、必ずや偉大な将来を手元に引き寄せることができるのである。
自分自身を高らしめる資財は、遠方にあるものではなく、身近で些細な事象そのものなのである。
未熟な自分が感じとった感触や些細な出来事をスルーして、気にも止めないのは、愚者の習いなのである。従って、成長もなければ上達といった変化は起きないのである。しかし、どんなに一瞬の感触でも些細な出来事でも、煩わしさを振り切って一々気に止め、これに対する疑問を追究し探究するならば、輝かしい将来が約束されるのである。
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